水都大阪の歴史
古代大阪の変遷
大阪の歴史は、水を起源とする。
古代大阪は、海岸線が平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていた。古墳時代になると、河内湾は淡水化し、潟となって、やがて河内湖へと姿を変える。淀川や大和川の度重なる氾濫により土砂が堆積し形成された大阪平野は、水害を受けやすい地形であった。日本書記には、大規模な治水・利水事業をはじめ、南北東西の道路を伸ばす土木工事が行われた記事が多く見られ、人々が暮らしやすい土地を求め、地形を改良していたことがうかがえる。
この時代、大阪は上町台地の東方の港を拠点として、瀬戸内海各地や九州、さらには大陸から持ち込まれた文化や技術が日本各地へ広がっていった。中国大陸や朝鮮半島との関係が深まり、大陸からの渡来地、さらには遣隋使・遣唐使など使節往来の拠点として発展した古代日本の玄関口が難波津(なにわづ)である。
孝徳天皇が大化の改新の幕開けとともに飛鳥からここに都を移し、難波宮(なにわのみや)を置いたのが645年。日本随一の国際港を擁していた難波の地で都市建設が進んでいく。
平安時代には、天満橋から北浜の南岸に渡邊津(わたなべのつ)と呼ばれる港があり、当時盛んになった熊野詣の出発点としてにぎわいを見せた。
【出典】大阪ブランド資源報告書(大阪ブランドコミッティ、2006年)
【参考文献】「水都」大阪物語(橋爪紳也、2011年)