水都大阪の歴史

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水上交易の中心都市

近世には、豊臣秀吉が大阪を首都にする構想を抱え都市開発に着手する。大阪城の築城と並行して城の西方に外濠として東横堀川を掘ったのを皮切りに、広い街路や太閤下水を築き、町家の高さを統一するなどして、整然とした城下町を造り上げた。

また、商人たちが競って堀川開削の許可を取り付け、数多くの開削が盛んに行われた。船場を中心に「水の都」と呼ばれる街の原型ができたのはこの時代である。

縦横無尽に広がる堀川は、大阪の物流の動脈として「天下の台所」を支える重要な役割を担い、以後300年余り廃れることなく利用されてきた。
1684年に河村瑞賢が水害対策として開削した安治川は、海と市中を結ぶルートとして船が出入りし、木津川とともに港の中心となった。大阪は、北海道や江戸と畿内を結ぶ北前船や樽回船が運んできた産品を積み替えるハブ機能や、加工するなどの製造機能を有し、淀川や大和川などの内航路を経て京都や奈良へと荷物が運ばれて行った。

「天下の貨(たから)、七分は浪華にあり、浪華の貨、七分は舟中にあり」と記されるほど、大阪は全国一の交易拠点として、また水の都として活況を呈したのである。

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浪花百景
長堀石浜(芳瀧画、安政年間1854~1860)
大阪府立中之島図書館蔵

長堀川は江戸期大坂の幹線河川の一つ。
各地から運ばれた石を加工し、商う石屋が集中していた。舟運を利用して、重い石材を街なかまで運び入れることができた。

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坂府新名所
安治川口(貞信(二代)画、年代不明)
大阪府立中之島図書館蔵

河村瑞賢が開削した安治川には港ができた。
「出船千艘(でふねせんそう)、入船千艘(いりふねせんそう)」と言われたように、各地の品物を積んだ船がたくさん停泊している様子が描かれている。

【出典】大阪ブランド資源報告書(大阪ブランドコミッティ、2006年)
【参考文献】水の都おおさか物語(大阪市、大阪都市協会、1995年)