水都大阪の歴史

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近代化する大阪

明治に入ると、東京に遷都され、いったん大阪経済は下降線をたどる。しかし、もともと流通経済の中心だった大阪は、紡績をはじめ、機械製造や造船などの工業化が進み、新産業の中心地となって台頭する。

第二次市域拡張により日本最大の人口を誇った大正後期から昭和初頭にかけて、大阪は「大大阪」と呼ばれた。東洋一の商工都市であったと同時に、文化・芸術が華ひらき、活気にあふれた時代である。近代モダン建築や橋梁などの建造物には、新しい構造や華やかな意匠が採り入れられ、その多くが造られた中之島、北浜、船場一帯は、近代大阪の重厚な都市景観を形成した。大阪控訴院(1916(大正5)年竣工)、現在の大阪高等裁判所の場所)、初代大阪市庁舎(1921(大正10)年竣工)をはじめ、中央公会堂(1918(大正7)年竣工)や堂島ビルディング(1923(大正12)年竣工)など、市民の寄付や民間によって建てられた建築も多い。

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大阪中之島公園風景真図(画家不明、明治中期)
大阪府立中之島図書館蔵

中之島公園は、1891年(明治24年)、大阪で最初に市営公園として開設された。浪華三大橋の向こうに、大阪城を望む。

江戸時代、水運の利から諸藩の蔵屋敷が並び商業と物流の中心地だった中之島は、明治維新後は、官庁や学校、文化施設の用地となり、経済と文化の発信地となっていく。中之島周辺は、新しい建築を受け入れてきた場所であり、それらは伝統を生かしながら水辺からの美しい景観を意識して造られた。当時の絵葉書や観光艇には、「水の都」「水都」という文字が用いられており、中之島周辺の水辺の景観は、近代化する大阪の象徴として謳われてきた。

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大阪名所
上空ヨリ見タル難波橋(昭和初期)
大阪府立中之島図書館蔵

1915(大正4)年に竣工した難波橋。都市景観を考慮し、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、石造りの階段のほか、橋の四隅には阿吽のライオンの石造があり、「ライオン橋」と親しまれている。中之島に中央公会堂と大阪銀行集会場、堂島川の向こう側に大阪控訴院や堂島ビルディングなど、大正年間に完成した建築が映っている。

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(大阪)水に映ゆる北濱街(時期不明)
嘉名光市氏蔵

戦前の北浜の水辺風景。経済・産業の反映とともに、近世の面影を残す木造建築からモダンな建築の建つ水辺へと変貌していった。現在より護岸が低く、登録有形文化財の「北浜レトロビルディング」(右から2つ目。1912(明治45)年築。)などの建物が川へ顔を向けている。

また、1903(明治36)年に天王寺一帯で開催された第5回内国勧業博覧会においては、日本初となるイルミネーションで会場を照らし、大きな話題を呼んだ。都市空間全体に光を満たし、魅力的な夜景を演出する試みは日本では先例のないものであり、道頓堀や新世界などの盛り場では彩りのある電球の演出を行い、夜景の名所となった。大大阪時代には、街中に電気が普及し、街を照らすネオンや街灯、電灯広告などは、大大阪のモダンなイメージを醸し出す夜の景観を創り出した。

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大阪名所
道頓堀(1933年(昭和8年))
大阪市立中央図書館蔵

「ホラ見てみなはれ 青い灯赤い灯の道頓堀」と大阪弁を用い、電灯で照らされたモダンな道頓堀を観光絵葉書に使用している。

一方、大阪市の沿岸部は海に近く、運搬至便な河川舟運があることから、労働力のある市街地に近接するエリアであることから、大小の工場と住宅が混在した地域が広がっていった。
大大阪の都市的発展の負の遺産として、市内の堀川には家庭の生活排水や産業排水が流入して、河川が汚濁した。市内には工場の煙突が立ち並び、黒煙が噴き上がる景観を表して、“水の都”は“煙の都”と呼ばれるようになった。

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大阪市パノラマ地図(美濃部政治郎、1924年(大正13年))
大阪市立中央図書館蔵

第二次市域拡張を行う前の大阪の海からの眺め。市中の河川や運河に大小の船が行き交う様子が描かれている。中央公会堂や初代市庁舎、市電が描かれているが、御堂筋はまだ拡張されていない。ベイエリアに開発された新田地域に建てられた工場の煙突から煙が上がるが、まだ空き地が多く、大阪が“煙の都”となる前の風景である。

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大阪名所絵葉書・安治川口(昭和初期)
大阪府立中之島図書館蔵

安治川は大阪湾から市中へ直進できるため、諸国の廻船が入港して繁栄した。内地沿岸貿易地として、小型汽船、艀船、機帆船の入船は増加し、沿岸の重工業地帯の発展と相まって繁栄した。