水都大阪の歴史

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“水都”再生のスタート

難波津の時代、「天下の台所」と呼ばれた江戸時代、そして「東洋のベニス」と称された近代に至るまで、縦横に開削された堀川から、私たちがどれほどの恩恵を受けたのか、計り知れない。いったん、川と陸が分断され、水都としての輝きに影を落とした時代があったが、水辺の都市としてのルーツを見つめ直し、海や川が育んだ街大阪を、今一度、“水都”として再生しようと、水辺を活かした整備やにぎわいづくりが進められてきた。

契機となったのは、水都大阪再生の取り組みが、2001年に内閣官房都市再生本部によって都市再生プロジェクトに指定されたことによる。それまで、大阪府、大阪市、経済界等では、都市間競争を勝ち抜くための都市格の向上が重要ということが共通した認識であった。停滞する大阪を元気にするためには「水都」をテーマとした新しいムーブメントを興すことが必要であり、お笑いやたこやきなどの既存イメージを刷新する新しい「大阪のブランド」が求められていた。

2003年、大阪府、大阪市、経済界等が構成する「花と緑・光と水懇話会」と「水の都大阪再生協議会」の2つの組織から、ほぼ同時に「水都大阪」再生に向けた取り組みが提案されたことを受けて、親水空間の整備やにぎわいづくりなど様々なプロジェクトが展開された。

2004年から、道頓堀川沿いの遊歩道整備がオープンし、ミナミの中心部に憩いの場が創られたと同時に、水辺に顔を向ける川沿いの店舗も次第に増えつつある。2008年には、水陸の交通ターミナルとして八軒家に浜と船着場が再生されたのに続き、堂島川沿いではほたるまちの街びらきにあわせて福島港(ほたるまち港)が開港するなど、公共事業と連携し、水辺を意識した民間開発も進んだ。大阪の歴史・文化の代表的なゾーンである中之島エリアにおいては、2010年7月に中之島公園が親水性を高めた都市空間として再整備され、水都大阪のシンボルともいえる景観を形成している。

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澱川(よどがわ)両岸一覧「大坂八軒家」(松川半山画、1863年)
大阪市立中央図書館蔵

貨物船や旅客船が数多く往来し、旅館や飲食店などが並ぶ八軒家。荷揚げ、客の乗降や歓送迎、休憩待合など、水辺がにぎわう様子が描かれている。

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現在の八軒家浜
船着場や雁木が再生された現在の八軒家浜(大川)。川と陸との結節点としての機能と川の駅や飲食スペースなどが設けられ、憩いの空間として親しまれている。

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夜の戎橋道頓堀(時期不明)
大阪市立中央図書館蔵

現在の道頓堀川
道頓堀は数々のネオンが光り輝く華やかなエリア。道頓堀川の水面に映り込む光は、今も昔も変わらない。