水都大阪 今昔写真館

大阪は、水運に支えられて経済と文化の中心的都市として発展し、明治の頃には“水の都”と呼ばれました。

いにしえの時代と現代を比較することで、人々の生活を豊かにし文化を発展させる場としての川や橋などとの絆を見つめ直すとともに、水都大阪の更なる魅力創造と大阪のシビックプライドの醸成を目指して「水都大阪今昔写真館」を開設します。

(浪速百景は「大阪府立中之島図書館所蔵」)

源八橋

源八橋が架かる大川(旧淀川)には、江戸時代初期からの長い歴史をもつ”源八渡”がありました。与謝蕪村は“源八をわたりて梅のあるじかな”という句を詠んでいます。

源八橋は、昭和11年に完成し、昭和46年、東行きの左折レーンを増やすため、橋の半分だけが上流側へ拡幅されました。また、平成11年には、再度の拡幅と橋面の改装工事が行われ、同時に、顕彰碑も設置されています。

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川崎橋

江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎へは「川崎渡」が通っていました。明治10年、この地に橋が架けられ、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことから、「ぜにとり橋」と呼ばれたと言われています。

この橋も明治18年の大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはありませんでしたが、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設されました。桁を吊った斜張橋で、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けています。

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堂島米市

江戸時代の初め、各地から運ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われており、中心となっていたのが豪商淀屋であったため「淀屋の米市」とも称されていました。元禄10(1697)年頃、当時開発されたばかりの堂島新地の振興策として、米市は堂島に移されることになりました。

享保15(1730)年、江戸幕府は、ここで行われる正米商(しょうまいあきない)(=米切手を売買する現物市場)と帳合米商(ちょうあいまいあきない)(=帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場の相場は、全国の米相場の基準となりました。堂島米市場は、日本における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られ、現在、米市場跡の記念碑が立っています。

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雑喉場

かつてこのあたりには百間堀川が流れており、江戸堀川、京町堀川、阿波堀川を集めて木津川に合流していた。百間堀川の東岸鷺島は、江戸時代より雑喉場の魚市と呼ばれ天満の青物市、堂島の米市とならぶ大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。その当時の雑喉場はことのほか活況を呈し大坂商人の商人魂を培っていた。しかし、300年の歴史を持つ雑喉場も昭和6年の中央卸売市場の開場によりその歴史を閉じた。

江戸後期、雑喉場から百間堀川をこえて、対岸の江之子島に架かる橋は、上之橋、下之橋の2橋があった。明治に移り、7年に江之子島に大阪府庁舎が建設され、その翌年、大阪で5番目の鉄橋として下之橋とほぼ同じ位置に雑喉場橋が架けられた。その後2度改築されたが昭和39年に百間堀川の埋立てとともに、雑喉場橋も姿を消した。

雑喉場橋はこの碑の東側にあたり、この親柱は大正11年改築時のもので、その上の照明灯は当時の姿を復元したものである。

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四ツ橋

西横堀川に架かる上繋(かみつなぎ)橋・下繋(しもつなぎ)橋、長堀川に架かる炭屋橋・吉野屋橋の4つの橋が井桁上に架かっていることから、四ツ橋と呼ばれるようになりました。

明治41年、北西端の交差点に大阪最初の市電交差点ができ、交差した複線の線路が東西南北どちらへでも曲がれるようになっていた。当時は、この交差点が珍しがられ、多数の見物客があったと言われています。

江戸時代から名所として親しまれた四ツ橋は、昭和46年に西横堀川、昭和48年に長堀川が完全に埋め立てられ、姿を消してしまいました。長堀通の中央の緑地が阪神高速道路と立体交差している部分に、小西来山と上島鬼貫の句碑が残されており、それによって在りし日の威容を偲ぶことができるのみとなっています。

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天満橋

大川に架かる天満橋は、江戸時代、天神橋、難波橋と共に「浪花三大橋」と称された長大橋で、天満青物市場、八軒家船着場などをひかえ人通りの絶えることがないエリアでした。当時は、現在の場所より東に位置しており、公儀橋として幕府に直轄管理されていました。

現在このエリアは、2009年に、水都大阪のヒト・モノ・コトの交流拠点として誕生した関西初の常設の「川の駅 はちけんや」を中心に、レストランやカフェ、SUPやノルディック・ウォーキング、観光船のりばなど、水辺を楽しめる場所となっています。

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玉江橋

堂島川に架かる玉江橋は、江戸時代に堂島開発の一環として大江橋、渡辺橋、田蓑橋、船津橋とともに架けられた5つの橋のうちのひとつで、当時は、堀江橋と呼ばれていました。反りの大きなこの橋を北から登っていくと正面には四天王寺の五重塔が見えたと言われています。

現在では、高い建物が多く、とても四天王寺まで見ることは出来ません。当時の風流な時代に思いを馳せながら比較してみると面白いかもしれないですね。

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筋鐘御門すじがねごもん

江戸時代には外堀と旧大和川(寝屋川)との間にはさまれて大坂城三の丸がありましたが、城内から京橋口の土橋を渡るとすぐ右側に見える筋鐘門は、この三の丸への出入口でした。

現在このエリア周辺は、大阪城ビジネスパークが拡がっています。

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